浄徳寺に関する伝承  「上石津ふるさと噺(はなし)」より

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風呂の井戸 (室町後期〜戦国時代)

 頃は戟国の世、正親町天皇の姫君が御病気になられ、いろいろと手を尽されましたが、なかなか治りませんでした。ところが風のたよりに、三輪という三人の祈祷師が大和にいることが天皇のお耳に入り、さっそく呼びよせられ祈祷をされたところ、たちまちに御全快になられました。天皇はとてもお喜びになり、三輪三人衆に多良・時の地を賜わり、三輪佐度は樫原に、豊前は名及に、筑後は小山瀬に住まわれることとなられました。この三人は特に佛法を信仰し、上原に浄徳寺を建て、貧しい人々に衣食をほどこし、人々にしたわれていました。しかし、天下の大将織田信長は仏教を信ずる者をきらい、この三輪三人衆も罰せられることになりました。これを聞いた百姓たちは、三輪の屋敷に兵糧を持ち寄ってつめかけ、三輪の殿様を守って一緒に戦う構えをしました。これを聞いた信長は計略をめぐらし、公役として十五才より六十才までの男は、その人々の力相応に竹束をつくり、決めた日に必ず持ってくるようにと、きびしいおふれを出しました。計略とは夢にも知らぬ村の人々は、これはきっと戦でも始まるのであろう、公役ともなれば仕方がないと、村人残らずそれぞれに竹をかつぎ、役所へ持って行きました。これを見届けた信長は、家来に命じて、男共のいなくなった多良へ大勢の兵を押し入らせました。三輪の殿様三人をたちまち生捕り、寵に乗せあみを打ちかけて大垣へ送りました。勢に乗った兵士たちは、三輪の屋敷家財残らず散々に打ちこわし、それから上原村の浄徳寺に入りました。そして、「此の寺の門は非常に丈夫である。山中よりの土産として、こわして持って帰れ」と、たちまち門をこわし、大垣へ持っていってしまいました。さて、こんなこととは知らぬ百姓共は、帰ってきてびっくり仰天、だまされたことを知り、怒りなげきましたが、あとのまつりでした。
捕えられた三輪の殿様三人は、大垣の柳原で切腹の刑に処せられました。あとに残った三人の奥方は、辻堂により合い、黒髪をそって尼の身に姿を変え、若君や姫君たちも風呂に入り身を清めて、従う者含めて十五人、百姓たちと名残りを惜みながら、時山越えで諸国巡礼の旅立ちをされました。この時より玄海戸(さるかいと)辻堂の池を、風呂の井戸と呼ぶようになったといい伝えられています。


血原合戦 (戦国時代)

 頃は永禄という年のこと、これは伊勢の長島攻めにまつわる話です。羽柴秀吉は信長の命を受けて、七百騎の軍勢をひきいて合戦にのぞみました。しかし、敵は思いのほか強く、一旦退いて援軍を求めようと、北伊勢の方へ分け入りました。そして、勢州街道を北へ向かい、打上の渡瀬を過ぎて時の湯葉権現で、しばらく休息をとりました。ここで秀吉公が、戦いの疲れをいやすため入浴をされたので、湯谷とここを呼ぶようになったといわれています。それより横欠けを越え多良村に入り、松之木上の平にひとまず陣を張った。この時軍勢が、馬の背のように打ち続いて乗りこんだので、この地を馬背 (馬瀬)と名付けたといいます。しかし、馬背からは見通しがきかないので、上原前の出張山に陣を構えました。それで、ここを城山(じょうやま)とよんだといいます。この城山より前の野に見張りを立て、敵は攻めてはこないだろうか、また、援軍が早く到着しないだろうかと遠見をしていました。この兵士たちは、日の光と霞のため、陣にもどってからもしばらくは、眼がボーッとして見えない状態であったので、ここを盲が平(めんくらだいら)と呼んだといわれています。
さて一方長島の軍勢は、遂にこの多良の地へ押しよせてきました。秀吉の軍は、これを城山南西の河原に迎え討ち、七日七夜、敵味方入りみだれて戦いました。やがて加勢の蜂須賀小六の騎馬隊が玄海戸(さるがいと)の辻堂より、ときの声を上げて敵中へ突入すると、この勢いに長島勢は、くもの子を散らしたように逃げまどいました。このとき、合戦の場所となった宮の下から前夫下(ぜんぶした)まで、一寸のすき間もないほど赤い血に染まったので、ここを血原(ちばら)と呼ぶようになったといいます。


蛇渕[じゃぶち] (江戸時代初期)

 むかし、上多良の猪の尻に佐太夫という人がいました。この人は、狩りや漁が、たいへんじょうずでした。ある日佐太夫は犬をつれて川へ魚をとりに出かけました。川の水はすみきって、たくさんの魚が泳いでいます。夢中になってとっていると、なぜか犬が急に大きな声で吠え出しました。何事かとよく見ると、川の中から、かま首を上げた大蛇が、いまにも飛びつきそうにこちらへむかってきます。犬はますます大きな声で吠えたてます。
佐太夫は、腰に差していた刀を抜くがはやいか、その大蛇めがけて切りおろしました。大蛇の胴はまっ二つになりました。しかし、頭を切らなければ死なないと思い、頭を探しましたが、もうあたりはうす暗くなって、いくら探してもそこらあたりには見当りません。その日はそのまま家へ帰りました。つぎの日佐太夫は、上原の浄徳寺へおまいりに行きました。その途中ふと川を見ると、たくさんの魚がむれになって、上の方へあがってきたり、下の方へいったりしています。佐太夫は、もともとかりがすきでしたので、お寺まいりをやめてさっそく家へ帰り、あみを持ってきて、むらがる魚めがけて投げました。あみはずっしりと重く、いくら引っばっても魚は上がってくるどころか、ズルズルとひきずられて川の底へしずんでしまいました。その魚のむれは、実は大蛇の頭だったということです。それからここを「じゃぶち」と呼ぶようになったそうで、今ではその渕はなくなっています。

もう一つの蛇渕[じゃぶち] (江戸時代初期)

 佐太夫について、上の「蛇渕」の他に、幾里の「蛇渕」の話がある。別の古い本においては、次のように1つの「蛇渕」の話として書かれている。

 下幾里に蛇渕という大層深い淵があったと。今はかわりかわって浅くなっている。
慶長五年関ヶ原戦争のあった時、三輪佐太夫親貞さんという者が此の戦から逃れて、多良に入り宮に住んでいた。其の後高木三家がご入村になったので、居を井の尻に遷して住んでいた。
親貞さんは狩が大変好きで、或る日幾里山へ友達と猟に行き、渕の上で昼食をとりお腹のふくれたのと疲れで、ぐっすりと昼寝をしてしまった。
 すると愛犬がしきりに吠えるので目を覚ましふと頭を上げると、大きな蛇が今にも親貞さんに近寄り、一気に呑み込もうとしているさまだった。親貞さんはびっくりして腰の太刀を抜いて、一声のもとに太い首をゾボリと斬りおとしてしまった。首は飛んでこの深い淵に落ち込み、渕は血の海となってしまった。
 親貞さんは友達に向かって心配そうに「蛇の頭は後にたたりがあるから、渕から首を探し出そう」と呼びかけた。
 けれども余りの物凄さに、友達たちは震えあがってしまって淵に入ろうとはしなかった。
 親貞さんは自分から淵に飛び込んで、探したけれども、どこへ行ってしまったのか首をみつけることは出来なかった。がっかりしてそのままにして帰ってしまった。
 何事もなく日が過ぎて、翌年の十一月二十七日になった。上原の浄徳寺では報恩講が行われている時だった。親貞さんはその晨朝に参詣し帰る途中城山の下まで来ると、鏡のように澄んだ淵に鮎がたくさん群り泳いでいるのを見かけた。
 狩の好きな親貞さんは胸をわくわくさせて急いで家に帰り、早速網を持って淵に走り、ぱっと淵一杯に網を打ちこんだ。すると鮎の姿は一時に消え失せ、渕の面には波紋だけが残っていた。
 がっかりして親貞さんが網を引き上げようとしたが、どうしたことか重くて重くて網は上がってこない。全身の力を込めて引っ張ると引っ張るほど重くなり、とうとう網もろともに淵に引きずり込まれてしまった。
 この話を聞いた人々は、きっと大蛇の首が鮎に化けたのに違いないと語ったと。


天狗と浄徳寺の縁板 (明治初期)
  多良の上原に大洞(おおぼら)というところがあり、そこには、むかし天をつくような大きな栗の木があって、そのあたりは星間でもうっすらと暗いほどであったといいます。そこには天狗が住んでいて、鳥のように自由自在に、あっちの山やこっちの谷へと跳びまわっていました。さてある年のことです。多良村の上原では浄徳寺の本堂を建立することになり、この栗の木を切りたおすことになりました。そこで、村一番の木こりといわれる縫治郎という人が伐りに行きましたが'急に天候がわるくなり大あらしとなりました。夕方になっても縫治郎が帰ってこないので'村人たちは心配してみんなでさがしに行くと、縫治郎は木も伐らずに、この栗の大木の下ですでに死んでいました。「これはきっと天狗のしわざにちがいない」と、村人たちはおそれ、だれもこの栗の大木を切ろうとはしませんでした。ところが、それを伝え聞いた和田の長五郎という人が、「それなら私が伐らしてもらいましょう。だが私一人では困るので、浄徳寺の御縁住(ごえんじゅう)と一緒に伐りましょう」ということで、いよいよ伐ることになりました。二人は栗の大木のそばへ行くと、御縁住はうやうやしくお経を読みはじめました。長五郎も一礼すると、静かにお経に合わせて木を伐りはじめました。こうして二人は、一生けんめい力を合わせて大木を伐りました。そして三日目さしも大きいこの栗の木も、あたりをゆるがす地ひびきと共に倒れました。するとどうでしょう。ものすごい風とともに大きな天狗があらわれ西の山へと飛んでいったといいます。この時、天狗が西の山へ空を飛んでいくのを見た村人は、数人いたといわれています。さて、伐りたおした栗の大木は、三丈ほどもありました。浄徳寺の本堂の縁の板は、この木一本だけでできており、上がり段はその枝だけで出来たといわれています。いかに大きな栗の木であったかということが想像できます。

まとば
 
 寺の南下に「まとば」とよばれる所あり。(南から参道へ続く道の入口のまわり、及び右奥一帯の平地)
江戸時代に、旗本東高木家の殿さまが参詣の時、馬を降りて留めた所、「馬留場」が「まとば」になったのではないかといわれている。


高札場

 浄徳寺参道表口(北側)の外に、江戸時代には「高札場」があった。高札場とは、幕府・領主が決めた法度や掟書などを木の板札に書き、人目の引くように高く掲げておく場所である。 上原集落は、旗本の東高木家領の他に、天領、旗本の青木、別所領があった。


門・鐘楼堂・本堂の飾りと寺紋

                  門(上)と本堂向排(下)
   門の飾りと木鼻     蟇股の「橘」の寺紋(家紋)      鐘楼堂           鐘楼堂の木鼻


駕籠

 尾張徳川家家老であった石河光晃の御息女が、輿入れのさいに使ったとされる駕籠

道標「右山道・左上原道」

 「猿海道」は、河岸段丘上の段丘面にあり、北側と西側は段丘崖、東側から南側にかけては丘となっている。又、北側は三谷川の溝川である。南側に小さな溝川が流れ、西側の段丘崖の下の川に続いている。水利が悪く、浄徳寺が上原の集落に移動してからは、開墾して畑が作られたようである。昭和50年に国道365号線のバイバスができるまで、畑地にて家等はなかった。水場は、「風呂の井戸」と呼ばれているところがあった。昔は、猿海道を通って伊勢へ抜ける街道があったとの事である。


(写真・猿海道から北側に外れた場所にある道標)


名称の由来

 浄徳寺の山号は「聖嶽山」という。当寺の奥にそびえる養老山地の最高峰は「笙ヶ岳」という。当寺に伝わる、明治ごろと思われる作者不詳の「遊浄徳寺并詩」という漢詩の一節には、「勢江ノ二別ツ界トス 其ノ最高峰名ケテ聖嶽曰ウ 聖嶽ノ麓ト梵宇(寺院)有 浄徳寺ト曰ウ」とある。「笙ヶ岳」のことを「聖嶽」と呼んでいたようである。又、明治後期生まれの住職の記録には「笙嶽」とあり。「笙ヶ岳」一帯には土着の信仰にかかわる地名や伝えがみられる。
 昔、当寺と関係があった大神神社の言い伝えに「壬申の乱・天武天皇」のことがある。笙ヶ岳にも「天武天皇」に関係する地名、「馬糞谷」「鞍懸岩(別説あり)」がある。又、山頂近くには、「地獄谷」という、死んだら地獄に落ちると言われている岩や、天狗が住んでいたといわれる「神さん松」という古い松があった。そして、川を挟んだ養老山脈の尾根にて、昭和になって梵字の書かれた五輪石が掘り出されている。当寺にも「天狗と浄徳寺の縁板」という伝承がある。
 笙ヶ岳には「踊りこば(方円こば)」というところがあって、古くはここに雨乞いの願をかけて踊ったという。そして、多良の北側にある別村、和田においても、かって養老山地の谷の奥にある天狗が住んでいるという「三ツ岩」いう大岩までのぼり、雨乞いの行事をしていた。「笙ヶ岳」に住む竜を怒らせ、雨を降らせるというものであった。「聖嶽」の名からは、古い土着の信仰が感じられる。

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